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【報告】FFPJ第24回講座:平成30年7月豪雨災害の被害と復興

· イベント

家族農林漁業プラットフォーム・ジャパン(FFPJ)連続講座第24回は、気候危機のもと年々深刻化する災害と復興の問題を取り上げました。講師は、地域防災の専門家で香川大学准教授の磯打千雅子さんです。「平成30年7月豪雨災害の被害と復興」と題して、9月12日(火)14:00〜15:30にお届けした講座の講義部分の概要はこちらになります。講座の配布資料はこちらからダウンロードできます(資料1資料2)。

ご紹介、ありがとうございました。今回、私の方でお話をさせていただくのは、平成30年西日本豪雨の水害についてです。

*自己紹介

少し自己紹介をさせていただくと、私自身、専門がもともと土木屋でして、民間企業で土木の技術者をしたあとに香川大学に着任しております。専門分野が地域の防災だとか危機管理ということで、国等の委員会では国土強靭化に関わることだったり、例えば南海トラフ地震の被害想定だとか、というところで私も勉強させていただいております。今日のお話に挙げております西日本豪雨について、私の職場は香川県高松なんですが、自宅が岡山県倉敷市でして、西日本豪雨水害のときには、自分の住んでいる町が被災をしてという経験をいたしました。それ以降、地域の皆さんと共に、復興に尽力をしてきたということもありまして、その点についてもご紹介してまいりたいと思います。

*極端な気象現象の増加

まず最初に頭の体操ですでに皆さん非常にご承知のことかなと思います。先ほど先生の方からもご紹介がございましたが、近年の気象状況について、非常に由々しき事態になっておろうかなと思います。こちらの資料は気象庁の方が過去40年分の台風の状況について調べたものでして、それを見てみると、台風の数が増えて、移動速度が遅くなる傾向が分かっております。このことから私たちの暮らしに大雨だとか、強い風の影響を受ける時間が非常に長くなってきているということが言えるかなと思います。

そこで本日は、平成30年7月豪雨被害で被害を受けた3つの地域のその後について、ご紹介していきたいと思います。一つは先ほど申し上げました倉敷市で真備町の事例と、もう一つが愛媛県の松山市の高浜地区の事例です。これらの地域の特徴といたしましては、倉敷市の2件についてはですね、防災という観点から見ると、西日本豪雨の前までは特段、こういった防災といった取り組みが盛んであったわけではないと。ただこの西日本豪雨を踏まえて、地域でいわゆる町づくり活動、その一環としての防災活動をすることで復興というものが、皆さんの中に根付いていったというところが特徴かなと思います。

一方で松山市の高浜地区は、実はこちらは日本全国でも有数のコミュニティの防災が盛んな地域です。人口の約90人に1人以上が防災士という資格を持っておられて、1回、小学校で避難訓練と言われると、100人を超える防災士の方がサポートに来てくださるというすごい地域なんですが、この地域が西日本豪雨の前からコミュニティの防災活動をしていたことで、行政とも円滑なコミュニケーションが図れて、復興も非常にスムーズだったという話を伺っていますので、この分野からお話を進めてまいりたいと思います。

◆平成30年7月豪雨の被害

*倉敷市真備町の被害について

まず最初に西日本豪雨のことで、倉敷市の真備町についてです。当時7月5日、6日から7日にかけて、このを流れる高梁川という本川の周辺で水位が上昇し、この真備町を流れる小田川からの水の流出によって、真備町の中が浸水をしていったという流れになっています。結果として、堤防の8か所が決壊し、町の約3割に当たるところが浸水と。土木学会の調査で一番深いところでですね、5メートル強というところがございました。3メートルを超えてくると、2階に上がっても水が押し寄せてくるというような状況でして、この浸水深が非常に深かったということもあり、この地域で亡くなった方は51人というような非常に厳しい災害が発生しました。

当時の状況を少し振り返りつつ、どのような被害であったかというのを皆さんと認識を深めてまいりたいと思います。こちらの映像は当時のニュース映像でして、この役場の上空に、このヘリコプターが飛んでいるような状況が見えるかなと思います。屋根だとか、また病院のテラスだとかというところに、たくさんの方が水に浸かりながら、命からがら逃げ上って、そこでヘリコプターだとか水上スキーの救助を待つというような状況が当時、ニュースの報道でたくさん見られました。ニュースの報道を私もたくさん見聞きをしておりましたので、災害発生直後はたくさんの方が避難できずに逃げ遅れてしまったから、ああいうような状況だったというふうに感じていたわけです。

*避難行動はなされていた

ところが、西日本豪雨以降、行政の方で調査した避難行動の調査結果を見てみると、その認識は間違っていました。7月6日と7日にかけて、当時の避難行動が実際に実施された時間帯というのをこの緑色のグラフで示しています。これを見てみると、避難勧告、避難指示(当時は避難勧告というもの、今は避難指示しかない)があった段階ですでに6割を超える方が避難の開始をされていました。この6割という数字なんですが、実は行政からの避難情報が出されると、私たち防災の研究者だとか、メディアの方は何パーセントの方が実際に避難したのか、要は住民側の受け取りがどのようだったのかということをよく調査をいたします。押し並べて一桁パーセント台というのが多くて、0点数パーセント台なんて場合も非常に多いです。それが一般的なんですが、真備町の方は実に6割を超える方がもうすでに避難行動を開始されていたということで、これは本当にとんでもなく皆さん、よく避難できていたというふうに言えるかなと思います。

一方で、真備町だけで51人の方、倉敷市全体で52人の方が亡くなったんですが、それを考えると、避難できる方は避難できたと。一方でやはり課題は、避難がお一人で難しい方にあろうかと思います。

*被害は高齢者に集中

亡くなった方の内訳を見てみても、亡くなった方のうち、約9割というのは、65歳以上の高齢者であり、またそのうち、ご自宅で亡くなった方というのも9割近くあります。今日はちょっと詳しくお話する時間がないんですが、この亡くなった方々が、どこで亡くなっているのか、例えば家の中のどこで亡くなっていたのかと見てみると、2階建て住居に住みながらも1階で亡くなっている方、1階で水に浸かって亡くなっていた方というのが、非常に多かったです。で、その方たちのなかには、2階にさえ上がれていれば、命が助かったという事例も多くてですね、やはり2階にすら上がることができずに亡くなってしまったという、そういうような厳しい状況が伺えました。

*倉敷市真備町は水害と共に歩んで来たまち

この西日本豪雨以降、地域の皆さまとこの災害が起こった町がこれまでどのように発展してきたのかというのを一緒に勉強をさせていただく機会をいただきました。こちらの地形図は、約50年ほど前の真備町の状況です。ここに今回の水害の浸水エリアを重ねてみますと、ちょうど昔の人はこの黒いのが過去の住宅なんですが、今回の浸水も免れるような場所に住んでいらっしゃったと。で、一方で町の中に浸水に浸かるところがちょうどあるんですが、これは空中写真を重ねてみると、実は輪中が張り巡らされていて、ここは実は川を渡ると宿場町だったんですが、輪中と共に地域の皆さんは、洪水があるということを前提にした住まい方をこれまでしてきたということが分かります。

一方でちょうどこの地形図を作られた以降、町の中に井原鉄道という鉄道線が倉敷の市街地の方から延びているんですが、その発展と共に過去の浸水エリアにも人が住み始めて、今回のような被害が発生してしまった一因かなというふうに思っております。このような被害の状況の中で、じゃあ地域の皆さんがどのように復興をしていったのかということで、倉敷ではまず2つの事例をご紹介したいと思います。

*危険な場所には住んではいけないのか?

一つはこの要配慮者と地域を繫ぐ拠点として、避難機能付き共同住宅という生活スタイルを獲得していった事例についてご紹介したいと思います。西日本豪雨の際に、やはりいわゆる高齢者の方お一人では平時から生活が難しい方が被害に遭ってしまった。このことに対して、住民の皆さんが出した一つの解決策が共同住宅に避難機能が付いたものを皆で整備するというものです。ちょっと経緯についてご紹介してまいりたいと思います。

きっかけはこの西日本豪雨のあとに真備町の皆さんが住宅の生活再建にあたって、何をやったらいいのか分からないから、勉強会をしてほしいということで私もお声掛けいただいて、お伺いしたことから始めます。ただ私のバックグラウンドは土木ですので、建築・建て物のことが不案内なので、建築の専門家だとか、阪神淡路大震災で復興に携わった方にもお声掛けをして、皆でこういった小さな勉強会を何回も重ねていました。

その中で皆さんが口々におっしゃるのは、やっぱり真備に帰りたいと。でもまた災害が起こるんじゃないかというのを心配している。そして今は歩けて元気だけれども、年を取った状況の中で、一人でこの町で暮らしていけるのか不安だというようなお言葉がありました。で、5メートルを超えるような浸水があったエリアなんですが、市の方でこの災害のあと、住まいの再建に関するアンケート調査を行なったところ、8割の方がやっぱり真備に戻ってきて同じ場所で暮らしたいというふうにご回答されています。こういった意向を受けてこの勉強会の中で出した結論の1つとして、なら最悪でも垂直避難が出来て、日頃から安心して避難できる場所が身近にあれば、命は助かるんじゃないかということでプロジェクトが始まりました。

*避難機能付き共同住宅(ハード)

ここで皆さんから挙がったのが、やはり垂直避難が出来るとなると、こういった共同住宅が必要だろうと。当然、行政の方でも災害復興公営住宅というのが用意をされるというのはあるんですが、そこに自分たちの希望が通るとは限らないですし、また居住者も抽選で選ばれるということで、年配の方で例えば認知症をお持ちの方が新しく人と人との関係性を紡いでいくというのはなかなか難しい中で、やはりこの暮らし、顔見知りの関係の人たちと一緒に暮らしていくというようなことが望ましいだろうということで、行政に頼った災害復興公営住宅を皆で考えていくというのは少し考えから外して、自分たちの力で自分たちが暮らしやすいものを作って行けないかということを考えました。

そこで、まず案として出たのが、これは建築士の方にモデルを作っていただいたんですけれども、例えば屋上まで直接スロープがあって、また屋上が避難できるような形になり、コミュニティルームがあって、日頃から地域住民が交流できるところがないだろうかと。で、この建て物そのものには、誰でも避難して来ていいですよ、そこに住まう方も何かあったときには自分のところに地域の方を避難として招き入れる。そういったことを了承している方で住むようなことができないだろうかというようなお話が挙がりました。ただこれ当初見積もりをお願いしたところ、1億を超えるような金額が必要になりました。なかなか民間主導で、不動産業界とかそういう方々でなく、本当に住民の皆さんがやるのは難しいという中で、いろいろ思案していたところ、この計画をお知りになった住民の方から、1階は沈んでしまったんだけれども、2階は水に浸からなかったアパートがあるので、これを利用してみたらどうだろうかというご提案をいただいて、このアパートを改装する形で避難機能付き共同住宅というのが出来ました。

2階の1室をコミュニティルームというような形で地域の防災拠点で普段からここを開放します。で、例えばご高齢でお一人で暮らしていらっしゃる方で、新しい環境になかなか馴染みにくいという方も、普段からここの場所で例えば週1回、体操教室がありますよとか、お茶飲みに行く場所ですよというような形で、いつも通い慣れた場所であれば、避難のハードルも下がるだろうと。そしてこの住宅そのものも、人が住んでいる場所なので、生きた形での活用も出来ますし、2階に避難をするというときに、地上からのスロープをですね、グルっと取り付けて、誰でも2階に上がりやすいような形というのを配慮して、この住宅は出来ました。

*ささえあいの仕組み・暮らし方(ソフト)

ただハードを作るだけではいけなくて、やはり繋がりを作っていかないといけないというので、支え合いの仕組み、暮らし方のソフトのところも考えております。で、「助け隊・ありが隊」という有償ボランティアの仕組みで、自分のちょっと得意なことをお互い分け合うというものを町の人たちとやったりとか、あと地域の皆さんと地域の防災の取り組みですね、に携わったりというような形をしています。ちょっとこんな感じで、例えば右上の写真はスロープに旗を付けていますけれども、これはこの旗が出ているときは、ぜひ皆、避難してきてくださいね、待っていますよというサインだったり、夜間でもライトを点けて、外からも見えるような状況にしたり、またこのスロープを地域のシンボルにしたいので、子供たちと一緒にスロープを使ったイベントだったり、お絵描きをしてもらったりだとか、そんな感じで皆さんに親しんでいただけるような工夫を重ねています。

住民の皆さんに色々話を伺うと、高齢の方ではなくて若い方からですね、色々な多世代で住まわれていて、何か困ったらちょっと聞けて、家族みたいな暮らしが出来て、とっても幸せよという話だったり、アパート全体が家族みたいだけれども、それぞれのプライベートも保たれていて、いい距離感だよというようなお話をいただいて、良い暮らしの紡ぎ方が出来ていて良かったなと思っています。

こちらの取り組みが消防庁の第25回防災まちづくり大賞をいただいて、そして令和3年度内閣総理大臣の防災功労者表彰を受賞させていただきました。私たち、このチームサツキという、何の規約も何の団体でもない、ただの私たちがチームだと言っているチームでこの取り組みを進めているんですが、そのふんわりしたチームに対して、内閣総理大臣の方からそれを認めていただけて、それを表彰していただけたというのは、私たちいつも言っているんですけれども、この国ってすごいなあというようなお話をしています。

*リスクと共存する生活様式とは?

ハードの取り組みに加えて、やはり逃げ遅れてしまわれるのが非常に心配な方をどう皆で助け合えるかということで、要配慮者マイ・タイムラインという書式を皆で考えて、作って、活用しています。これはご本人、ご家族、近所さん、そして福祉事業者といった4者の方が災害時の警戒レベルに応じて、どのような行動を取るのかということをですね、事前に共有して可視化しておくことによって、支援の抜け漏れを防いだり、またお互いの連携をしやすくするという取り組みです。こうすることによって地域の繋がりの輪をどんどんどんどん絡めていって、たくさんの繋がりを作っていこうというのが、この大きな目的になります。

こういったような手引きだとかですね、またマイ・タイムラインという漫画だとか、動画、Youtubeでですね、様子が分るようなものも作っています。ぜひ要配慮者マイ・タイムラインというような形で検索していただけると、色々な教材が見られますので、ご参考いただければなと思います。

*倉敷市川辺地区の被害について

次に同じく今度は真備町の場所が変わって、川辺地区というところです。先ほどのアパートですね、地図でいうとこの辺なんですが、これからお話するのは川辺地区ということで、真備町の中でも地区全体が浸かってしまって、非常に厳しい被害があったエリアです。

この川辺地区、この川に挟まれているので、地区全域が水に浸かってしまって、直接的な被害としても厳しかったんですが、何よりやはり大変なのは、いったん全体が水に浸かってしまうと、住んでらっしゃる方がですね、そこから出ないといけないということになります。要は避難生活を送る上で、水が浸かっている場所には住めないので、倉敷の市街地だとか、お隣の総社市といったような場所で、ある一定の期間、皆さん避難生活を送っていらっしゃるんですね。そうすると、もともと地縁的な繋がりで活動をしていた町内会だとか、町づくり協議会だとかですね、様々な活動というのが出来なくなってしまう。この地域の繋がりがいったん途絶えてしまったということが、この川辺地区の復興において、非常に何よりも難しい問題だったんじゃないかなというふうに思います。この川辺地区がですね、その後、どのような形で取り組みを進めて行ったのかということについて、年表形式でご紹介してまいりたいと思います。

*復興への取り組み(年表形式)

西日本豪雨の発生した7月のあとですね、最初に立ち上がったのは若いお母さんたちでした。その若いお母さんたちが「川辺復興プロジェクトあるく」という団体になり活動を今も続けているんですが、最初にやったことは、スマートフォンのアプリケーション、Lineを使ってですね、グループラインでどんどん仲間を集めていって、お母さん同士の情報共有を始めたところからです。あそこで今日、お風呂に入れるらしいよとか、子供たちの学用品はどうすればいいんだろうとか、家の復興についてですね、何から始めたらいいんだろうという本当に小さな生活の困りごとを日々、お互いに悩みを共有するところから始めました。

それが徐々に徐々に輪が広がっていって、当初のグループライン、20人位で始まったところが今では600人のグループラインに発展しています。で、川辺地区の全世帯が1,300世帯くらいなので、そこで600人がこのグループラインに登録しているということは、非常に大きな意味を持っていまして、新型コロナウイルス感染の拡大の際にも、なかなか対面で顔が合わせられなかったとしても、このグループラインを通じて、地域全体で情報共有できる情報ツールがあったということは、川辺地区の復興にとって、大変重要なインフラになったんじゃないかなというふうに思います。で、あるくの皆さんの活動がですね、当初、そういうような物資の受け渡しだとかということだったんですが、その取り組みに共感したさらに有志の方が集まって、「川辺みらいミーティング」という、地域の将来を考える有志のチームを作りました。

この有志のチームの皆さんで何をやったかというと、最初はやはり被災をしたばかりの状態なので、皆がお互いどんなことを不安に思っているか、将来、この町をどうしていきたいのかということを、ざっくばらんに話し合えるような、その場所の提供をしていました。で、それが現在ではどんどんどんどん、内容が発展していって、地域の皆さんにとって、とても大切な安心して暮らせるための内容として、コミュニティでの防災活動を活動の中心に据えて、取り組みを進めています。

ちょっと経緯をもう少しおさらいすると、個人の声や思い、そしてその行動が端を発して、川辺みらいミーティングといった、テーマ型コミュニティの活動になり、そしてそのテーマ型コミュニティが、実はコミュニティ同士のハブになっています。これは例えば外部の支援者の方だとか、地域の中での様々な関係団体がこの川辺みらいミーティングの活動に一緒に参加することによって、支援を受け取る、受援するというようなハブにもなり、また住民同士のコミュニケーションのきっかけ、ハブにもなって、そういったコミュニティの繋がりをですね、再構築する、そういう非常に大切な役割に発展しました。で今、こういった「つながりの結なおし」というのをこれまで進めているわけです。もう少し詳しくご紹介していきたいと思います。

*川辺復興プロジェクトあるく~川辺みらいミーティング

最初にご紹介した川辺復興プロジェクトあるくは、子育て世代のお母さんたちを中心とした市民の有志の活動団体です。最初はこういったですね、コンテナを外部支援者の方からご提供いただいて、小学校のグラウンドに置いていました。でその小学校も当然、水に浸かっているんですが、この川辺の方たちはご近所さんと会う場所がないんですね。みんな地区外に出ているので、あの方は元気かしらとか、ちゃんと生きていらっしゃるかしらというのを知る由がない。集まる場所がないんですよ。

真備町は7地区に分かれているんですけれども、他の地区は全域が水に浸かったということはないので、地区の中でも浸かっていない拠点というのを中心に定期的な集まりがあって、お互いの情報交換を出来る場所があったんですが、川辺地区はそれが出来ないということで、新しくそういった場所をこしらえてですね、そこで人が繋がりが紡げるような、そういった取り組みをされていました。それはこういったキッズ防災教室があったりとか、カフェ形式で皆が集まるようなところで進められていきました。

でまた、川辺みらいミーティングでは、皆でグループワークをして、例えば当時の避難行動がこうだったから、今後こういった取り組みが必要だねとか、私たちの地域での防災の活動はこういったことが必要だねというような取り組みを進めていったわけです。ここでもやはり情報共有のツールとして、グループラインだとか、また「復興だより」というようなものを都度、皆さんに配布することで、川辺から離れている人たちにも、今、川辺はこういう状況ですよというのを情報共有しつつ、皆さんの気持ちを、この町に帰ってきて良かったとか、帰って来たいというような形で鼓舞するような、そういった気遣いというのを常にされておられました。

*黄色いタスキ大作戦

この川辺みらいミーティングで取り組んでいる内容で、特徴的なのが、この安否確認訓練の「黄色いタスキ大作戦」という取り組みです。このことについて少し詳しくご紹介してまいりたいと思います。こちらは皆さん多分、ご想像つかれるかなというふうに思います。無事ですというふうにプリントされた黄色い蛍光色のタスキを各家庭のこういった玄関とかにぶら下げて、お互いの安否確認を容易にするというものです。

この無事ですというふうに書かれてあるのは、避難しましたというようなことだと、やはり西日本豪雨のときにも、皆さん防犯面で盗難にあったりとか非常に悔しい思いをされたので、そういったところが心配だということで、無事ですというふうに書いています。なので外出していても、無事ですというふうに書いてあれば、他の方からのサポートは大丈夫ですよと、自分たちで大丈夫ですよというようなことを暗に外に示すというような形、メッセージになります。

実は、この黄色いタスキ大作戦が皆さんの「つながりの結なおし」に大変繋がっていました。私たち、普通に暮らしていれば、例えば町内会全体に〇〇を配るというのは、いろいろ方法があるので思いつくかもしれませんが、川辺地区はいったん全世帯が外に出てしまって、例えば今の地域の中でも町内会長さんがどこに暮らしてらっしゃるかも分からない。でまた、地域のことを良く知っていらっしゃった方が戻って来なければ、どこまでの世帯が町内会の範囲だったのかも分からないという状況の中で、何か物を配るということも非常に難しかったんですね。でもそれを一つひとつ、あそこの地区のエリアは誰々さんにお願いしたら皆に配ってもらえるというようなことを一つひとつ解決しつつ、そして社会福祉協議会の地域活動支援の皆さんだとか、民生委員さんにもご協力をいただきながら、全世帯にこの活動の主旨とタスキを手渡していくということにこだわって進められました。

ここで大事なのは全世帯になんです。あくまでも町内会に加入していた人ではなく、川辺地区にいる人、全世帯に配布するというふうなところに重きを置かれている点が、これは大変重要なことかなと思います。やはり町内会に加入されてない方も当然おられるので、こういった活動は加入メンバーだけというふうにされる場合もおるんですが、川辺地区の皆さんは皆で安全な地域を作っていきたいということもあって、この川辺に住所がある全世帯に皆の力で協力して、このタスキを説明をしながら手渡しをするということにこだわられました。それが、今回の手渡しの経験が結果として、この「つながりの結なおし」、つまり誰々さんに行きわたるのはどのルートでアクセスしていったらいいかということも分かって、本当に結直しに繋がりました。

ちょっとこの訓練の写真をお見せしたいと思います。こんな感じでですね、各家庭でぶら下げてくださいました。で、この訓練の特徴として私が思いますのは、誰でも参加しやすい方式が取られているというのは、大変重要なポイントかなというふうに思います。どんな方でも参加しやすい環境を作ることで、皆でこの町で一緒に暮らしていくということがメッセージとして伝わるので、誰でも参加しやすい工夫というのは非常に町の紡ぎ直しをしてくれる重要なことだなと思いました。この子は保育園の子なので、ちょっと写真を撮らせてって言って、撮らせてもらったんですけれども、小さなお子さんでも年配の方でもですね、家の玄関のところにキュッと結ぶと。で、この結ぶ物も実は結構、市販の物でも黄色いタオルとか売っていたりするんですが、タオルって意外と分厚くて、色々と試したんですけれども、結びにくいんですよね。力が要ったりするので、これはサテン生地の薄めのシャカシャカした雰囲気の生地なんですが、これだと結びやすいですし、また結構、ちょっとの風でヒラヒラするので目立って、とっても良かったので、このサテンの生地にしました。

あとこの写真を見ていただいて、非常に特徴的だなと思うのは、左上の写真のご自宅のは、カーポートの植木に結んでいます。左下はですね、これは勝手口に結んでいらっしゃいます。このお二方とも玄関に結んでいるわけではないんですね。これは何でかと言うと、左下の家は道路に面したところに勝手口があります。で、この同じく左上も道路に一番面したところ、このカーポートの植木が一番目立つところなんですね。つまりこの方々は災害時のことを想像して、この玄関に結ぶよりも道路沿いのところに結んだ方が、確認に来てくれる方が見やすいだろうというふうな想像をされているんです。この災害に備えるとか、防災活動って、重要だというのは、私たち誰しも頭では分かっているんですけれども、なかなかじゃあ具体的に災害時の状況がイメージできるかと言うと、日常の生活の中ではどうしても非日常になるので難しいかなと思います。ただこの方々は、このタスキを本当に結ぶということだけなんですけれども、その瞬間はですね、あっ、災害のときにこうなるだろうからというふうに考えられているんですね。そういう行為一つがこの違うシチュエーションに思いを馳せ、そして具体的な想像を掻き立ててくれるというので、誰でも参加出来て、そしてこの日常と非日常の壁も超えることができるという点で、とても良い工夫をされているなというふうに感じました。

*黄色いタスキ訓練の達成率

この訓練なんですが、川辺地区は1,300世帯ほどあるんですけれども、実に6割を超える世帯が参加してくださっています。これ去年の数字で、その前から、2021年からやっていて、今年で3年目でやっているんですが、ずっと6割超えを保っています。で、本当にいわゆる普通の訓練で半数以上の方が参加されるというのは、なかなかないことだなと思いますし、やはりこの地域が被災を経験されたということも、当然、その理由としてはあるとは思うんですが、やはり訓練への参加のしやすさというのも、大変大きなポイントなのかなというふうに思います。訓練の時間帯もこの結ぶという行為を何月何日何時にしてくださいという指定ではなくて、何時から何時にこのタスキが掲げてあるかどうか確認をしに、カウントしに行くので、それまでにやっておいてくださいというような形で、個人の事情に応じた訓練の形態が取れるようになっています。そういったことも大変重要なポイントかなと思います。

*コミュニティの防災活動と復興

ここでいったん川辺地区の状況をまとめたいと思います。やはり今回の水害で被災をした小田川といったような河川の治水安全度の向上に向けてですね、当初、10年間でやろうとしていた工事を5年間に短縮して、今年度末を目処にした急ピッチに、いわゆるハードの整備が進んでいます。そしてこういったような災害復興公営住宅の整備なども完了していて、町の中の物理的な復興というのは、もう目に見えて皆さん、実感できるところかなと思います。

ただやはり問題はですね、町の賑わいであったり、あとは人々の心の中にある生活が元に戻ったなと、そういった気持ちかなと思います。そういった気持ちに対して、この川辺地区では若いお母さんたちが、小さな声を皆で共感し合って、そして繋がりを作っていくようなブリッジになり、またその中からさらにテーマ型コミュニティが発生して、それが外部、そして内部のコミュニティのハブとして機能することでさらに町の進展がしていったと。こういったコミュニティのハブがあることで、外部の支援者も受け入れられやすくなり、そして地域の中のこの防災活動をすることが、実は「つながりの結なおし」に繋がって、皆さんの安心安全な町にということになったかなと思います。

で私、非常にですね、いまだに言葉として印象的で忘れられないのが、先生、私、真備に戻ってくることにしたんです、というふうにおっしゃったんですね。これはたぶん、被災から2年目くらい経ったところだと思います。でも昨日まではやっぱり別の場所で暮らそうと思っていたと。実は毎日、その気持ちが変わるんです、というふうにおっしゃるんですね。自分がこの浸水した場所でまた同じ生活をするというのを決めるのは自分の責任だと。でもそこに家族も当然、一緒に暮らしていく中で、自分がした結果、子供たちにまた怖い思いをさせるようなことになってしまうかもしれない。それを考えると、日々本当に迷いに迷ってずっと決断できなかったけれども、やっぱりこの地域の皆さんの防災活動というのは、そこの場所で皆で一緒に暮らしていくということに対して、やっぱりプラスの効果が非常に大きく働いたというふうに感じています。

何々が不安だと、これがどうだったという悩みをですね、分かち合って、それをじゃあ、どういうふうに解決していったらいいのかということに対して寄り添いあって、皆で方策を考えるということが、やっぱりお互いのこの場所で暮らしていきたいという選択をお互いに肯定し合う、そういう効果があろうかなと思います。そういった効果がこの地域のコミュニティの防災活動が復興を後押しする上でも非常に重要なポイントを示していましたし、当然、被災をされた地域でなくとも、こういった地域の活動を他の地域も勉強させていただくことでですね、同じような被害を防ぐような教訓にも発展するということで、というようなことが、この2つの地域の状況からも良く分かりました。以上が倉敷市真備町の事例です。

 

◆平成27年度地区防災計画モデル地区(松山市高浜地区)

残りの時間で10分ちょっとほどありますので、もう一つ、愛媛県の松山市の高浜地区の事例についてご紹介してまいりたいと思います。皆さん、松山は道後温泉が有名なので、もしかしたら行かれたことがあるかもしれません。道後温泉がちょっと内陸側にあるところです。今回ご紹介する高浜地区というのは、松山市のこの沿岸部にある地域です。沿岸部にある地域なので、この地域の皆さんはですね、水害ということよりかは、やはり四国の沿岸部というと、南海トラフ地震による地震津波というものを非常に脅威に感じて、ずっと海からいかに山に、高台に逃げるかという訓練をずっと続けて来られました。

ところが平成30年の西日本豪雨の際には、逆に山側からこの地域の中に土砂が流れ込んできて、被害が発生したわけです。ちょっと矢印で示しますけれども、この赤い矢印の流れのところ、地域の中に土砂が割り込んで来て、この赤いポツポツのところに地域の皆さんが当時、避難して来られたというような状況でした。ちょっと写真を見てみますが、こういったような状況です。泥水が住宅街に流れ込み、そして山から供給されたこの土砂で、この方のご自宅はだいたい引き戸の半分くらい土砂で埋まっています。本当に厳しい被害、そして復興に時間が掛かることが想定されるところかなというふうに思います。山手の方を見てみると、この山の山腹の肌地が見えていて、土砂が山から供給されていたということが分かるかなと思います。このような状況の中で、実はこの高浜地区の皆さんは、避難の途中で怪我をされた方以外は、この地域から犠牲者が出ることがなかったということです。それが何で、そういうような状況が出来たのかということについてご説明してまいりたいと思います。

*平成30年7月豪雨、高浜地区は自分たちで地域を守った

当時の状況を少し振り返ります。人家が全半壊の被害になったんです。7月6日、7日にかけて、このような状況でした。6日の朝、土砂災害の警戒情報が松山市の全域に出されました。それを受けて地域の皆さんが見回りの活動を開始されたんですね。その地域の中で、いつもとは違うところでちょっと異常を感じられたんです。こんなところで土砂崩れが起こるんだということで異常を感じられて、その異変に気づいたことによって、自主防災組織の方が一軒一軒、避難の呼びかけをされました。ただその呼びかけをする中で、この一軒一軒を回るのには、やはり限界があるので、住民側から行政の方に、避難勧告を出すように要請されています。

これはですね、私はここでこの地域の皆さんと行政の皆さんとの信頼関係の表れが見えるなというふうに思いました。これはやはり何でこういうことが出来たかというと、住民の皆さんと行政がお互いの強みをしっかり理解できていたというのが非常に大きいと思います。この高浜地区は西日本豪雨の前に、住民が行政と一緒に地区防災計画を作っていました。その過程の中で行政も住民の皆さんの、あの人はこういう人、この方がこういうようなことを地域でされている。で、この方に話を通せば、皆さんに情報が伝わるというのが分かってらっしゃった。それで住民の方も行政が持っているツール、また強味で地域にこういうふうにすれば、皆が助かるんじゃないかということを分かってらっしゃる。このときは住民の皆さんはご高齢の世帯を優先して、お一人お一人、声掛けをしていったと。

一方で行政というのは、例えばエリアメールとか防災行政無線といったような、いっせいに情報をたくさんの方に伝達をする、そういったツールを持たれているんですよね。そのツールを活用するということで、住民側から行政に避難勧告を出すように要請をされています。で、避難勧告というのは皆さん、ご存じの通り、住民がお願いして出すものではなくて、行政が一定の基準に基づいて、首長の権限で出すものなんですが、このときは住民の皆さんから行政の方に依頼をされて、それがきっかけとして9時頃、避難勧告の発出に繋がり、そして実際にそのあと、10時から翌朝に掛けて、地域の中で土石流だとかがけ崩れが発生したりというような状況でした。

*自主防災に至る経緯

この経緯をもう少し詳しく見てみると、この地域では3年前に土砂災害警戒区域が公表されたことを受けて、住民の皆さんが自ら自主防災マップを見直して、土砂災害用の避難場所を新たに決めていったそうです。これをもう少し解説すると、もともと高浜地区の皆さんは津波が怖いので、海側から山手にいかに高台に逃げるかということをずっと訓練して来ました。ところが、行政の方から提供された土砂災害警戒区域という、土砂災害に対して危ない場所が示された地図を見てみると、自分たちが避難しようとしていたところは、実は土砂災害の危ない場所だったということが分かったんで、これは災害の種類ごとに避難する先を決めておかないといけないということに気づかれてですね、自ら決めておられたことが今回も功を奏したということでした。で、自主防災組織の方が自主的に見回りを実施されたことによって、行政の指示を待たずに避難行動が出来たという点が非常に良かった点かなと思います。

*松山市の取り組み

こういったことがこの地域でなされた、成功した、功を奏したということの背景にやはり行政のこれまでの施策というのが、大変大きく効いているというふうに私自身は感じております。当然、地域の中の立役者で蔭原会長という会長さんがおられて、この地域に30云年ずっと防災活動を続けてらっしゃる、そういった担い手の中心になっていらっしゃる方がいらしたということも当然、非常に大きいですし、地域の中で訓練をやれば、100人を超えるような防災士の方が参集されて、皆で本当に工夫をして、進めていくというようなことがされていたということも当然、地域の力としては大きい。ですが、ここで松山市の施策としてご紹介するのは、平成7年からですね、自主防災組織の結成の促進を開始して、そして防災士の取得というのも、全国でいち早く、自治体主導で進めてきたというようなことがございます。で、担い手を育成していくというようなことをずっと取り組まれてきたおかげで、西日本豪雨の前、直前に市内の全域で地区防災計画が住民主導で作られていたというようなことがございました。

*地域ぐるみの松山方式防災(消防署単位)

で、この行政が住民の皆さんをですね、サポートする体制の中で、この松山市自主防災組織ネットワーク会議というものを作られています。これは住民の皆さんの、この防災士の方をネットワーク化してですね、検証したりだとか、というようなことを進めているんですが、そこにまた消防職員の方の担当が付いて、この行政と消防職員の方がですね、コミュニティの防災活動を支援すると。消防署のこういった所轄単位で、住民の皆さんの活動をサポートするということで、この行政と住民の連携を密にされています。

これが何でかと言うと、やはり地域の防災訓練、例えば消火訓練だとか、〇〇訓練をやるときには、消防署の職員の方が出向いて行って、一緒にお話されること、色々ご指導されることが多いと思います。消防署の職員の方のメリットとしては、24時間必ずそこにいらっしゃるんですね。で、地域の方との接点というのも、消防団だとか、色々な活動を通じてある中で、行政の方も住民の皆さんが普段どんなことをしているのかというのを、平時の活動を通じて知ることで、例えば行政が何らかの事業を起こしたりだとか、〇〇の補助金というのがあったときに、この地域にはこういったのが適当かなというところ、勘どころが分かってくるという体のところも非常に重要なポイントかなというふうに思います。

*松山市地域防災協議会

また全世代型の防災教育というのを進めておられまして、この子供さんから、大学生から、女性防火クラブから色々な防災に関わる団体を繫ぐような取り組みをされています。その中心になるのが防災士の方なんですが、ちょっと冒頭、申し上げましたが、今では住民の90人に1人以上、防災士の方がおられると。

その効果もあって、平成17年には防災訓練の参加人数が例えば8千人だったのが今では、令和元年の段階で7万人を超えていると。参加人数としては、約9倍に膨れ上がっています。やはり担い手の方がおられて、皆さんが関心を持っておられるというところかなというふうに思います。このような行政としての施策というのも、この地域のこういった取り組みを推進しているところかなと思います。こういった取り組みが、では西日本豪雨の被害を受けて、いわゆる復興というプロセスにどのように影響があったのかということを西日本豪雨以降、聞き取り調査をした中で少しまとめさせていただきましたので、ご紹介して私のお話を終わりたいと思います。

*平成30年7月豪雨災害と地区防災計画

1つはやはり、防災に取り組むことが行政と住民のコミュニケーションのチャンネルになっていたというところが非常に大きいです。何か行政と住民との接点を持つときの一つとして、防災を中心に据えたことで、あそこの地域にはこういった方がおられて、行政の窓口としては、こことここと、というようなところが双方見えていることで、何かあったときの情報共有というのが非常にされやすいということが非常に言えたかなというふうに思っています。

またその情報共有のチャンネルというのがあった中で、レスポンススピードの改善というところも強くおっしゃっていました。西日本豪雨のときに色々なことがあったらすべて上手く行ったということではないものの、やはりこの防災という活動を通じて、地域の方と行政が様々な連携があったことで、何か行政からの情報を住民の方に渡したときの反応だとか、行動というのが非常にお互いに早くなったというようなことをおっしゃっていました。やっぱりこのスピード感を持った対応が出来るかどうかというのは、復興に非常に重要な点かなと思います。時間が経てば経つほど、そこに住もうとしている方の気持ちも萎えてしまい、別の場所に一時的に居を構えていた方が戻りにくくなるというのは、この東日本大震災の教訓からも非常に見えているところですので、こういった行政と住民の皆さんとのコミュニケーションの改善によって、レスポンススピードがより短縮されたというのは、非常に重要な改善のポイントだったかなというふうに思います。

また実際に地域の皆さんがこの地区防災計画という行政と住民との連携の計画作りをされていたということによって、行政側も分かったこととして、予定していた対応行動を取るには、お互いのリードタイムがやはり大変、当然重要だと。自分たちはこの情報を住民に渡したから、〇〇について住民の方が即、動いてくれるかというとそうじゃない。なので、動いてもらうために事前の情報共有としてこういったものというのは、準備時間というものがやはりあって、そういったこともですね、この西日本豪雨の前に住民の皆さんと行政とが時間を掛けて、防災に取り組んで来たことで、お互いに分かってきて復興に非常に奏功したというようなご意見をいただきました。

以上、本日は西日本豪雨で被害を受けた岡山県倉敷市真備町、そして愛媛県の松山市の二つの事例について、特にこの地域のコミュニティの防災という活動がその後、地域の復興にどのような影響があって、何が必要だったのかという点についてですね、事例に基づいてご紹介させていただきました。ちょっと一方的にずっとお話を続けてしまいまして、お聞き苦しい点があったかもしれません。以上でいったん私の話を終わりたいと思います。ありがとうございました。