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【報告】FFPJ連続講座第21回:日本における麦・雑穀・豆類の栽培はなぜ衰退したのか

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FFPJオンライン連続講座第21回は、2023年国際雑穀年記念企画として「日本における麦・雑穀・豆類の栽培はなぜ衰退したのか」と題して、1月20日(金)に行われました。講師は、東京学芸大学名誉教授・農学博士の木俣美樹男さん。以下は、木俣さんの講義の概要になります。資料はこちら。文末までいくと講義の動画をみることができます。

今日は私の話を聞いてくださって、ありがとうございます。またこうした話をさせていただく機会を与えてくださって、皆さまにお礼を申し上げます。私は「植物と人々の博物館」の木俣と言います。私はもう50年ほど、第四紀の植物の進化の研究をしてきました。どの作物に対しても植物学者ですから、対等に敬意を持っています。ムギとトウモロコシであれ、イネについても研究対象でした。最初にお断りをしておきます。

先ほどご紹介いただいたように、ちなみに2023年、今年は国際雑穀年です。そういう中で、麦、雑穀、豆類などの栽培が日本でなぜ衰退してきたかということですね。そういったことを主にお話をしたいと思いますけれども、その前後に関連して人類の進化や文化や文明のあり方から、この主題をどう位置づけるかというところからお話を進めていきたいと思います。今日の物語は初めに心の構造と機能とか、農耕と農業の比較、山村の農耕のことを前振りにお話をしまして、主題についてお話をします。それから自然災害、人為災害という問題と農林水産業の教育がとても重要だということをお話して、最後に未来に対して何らかの希望が示せるようにお話をしたいと思います。よろしくお願いします。 

1.心の構造と機能

*人類の心の進化

さて私たち人類は、ホモ・ハビリスというのが200万年くらい前に出現しました。これは第四紀更新世という時代なんですけれども、この人類が現れたのと同じ時期に植物の側は一年生草本が現れているんですね。それから徐々に人類は色々な種が生まれては滅びて、ホモ・ネアンデルターレンシスというのが生まれて、そのあとホモ・サピエンス、要するに現生人類の私たちですね、これが現れたわけです。この現生人類が3万年ほど前までオモ・ネアレンデルターレンシスと共存していたんですけれども、どうもネアンデルタール人を滅ぼしてしまったという説がありますね。このサピエンスは第四紀完新世になりまして、狩猟採集から農耕民になるという方向を取ってくるわけです。それからさらに現代、まさに今なんですけれども、最近、人新世という言葉が使われるようになりました。こういうような歴史をたどってくる中で、人間の心の構造がかなり進化をしてきたわけですね。あるいは退化をしてきたのです。

今、お話したことを簡単にまとめたのが、このような表(第四紀の地史と文化史)になりますけれども、ご説明は省略をしたいと思います。それでこうしたきっかけになることで、今日は最初に整理をし直したんですけれども、『精神のモノカルチャー』という本をVandana Shivaという方が書いていますね。その中で「多様性を認識し、世界から追放し、その結果として現実世界からも多様性を消滅させる。多様性の消失はまた代替的な選択肢の消失でもある」というようなことを述べています。穀物や色々な作物が単一のものになってしまって多様性を失うことが心の多様性も失うという意味で使っているのですね。それで一番下の方に出版されたての本がありまして、直訳すると『持続可能な食料と栄養保障のための孤児作物』というようなことが書いてあるんですけれども、それで思い出しまして書庫を探したところ、『アフリカの失われた作物』という本もありました。こういうようなことについて欧米人はかなり興味を持っているんです。そういうことについて、これからお話をしていきます。

*狩猟採集民と都市民の比較

さっきの心の構造を簡単にご説明します。人類の心の構造の進化について考古学者のMithenが述べていることを私はヒントにして、このようにまとめ直したんです。博物的な知能とか技術的な知能とか社会的な知能ですね、それから言語(情報知能)、一般知能というものがうまく合わさって、特に伝統的な暮らしをする先住民とか、山村の人たちとか、こういう方たちはこういう知能を統合的に使うことができるので、非常に自然とか社会のお付き合いの仕方がとても良かったわけです。ところが私たち都市民はこういった諸知能を縮小させて、しかも認知の流動性ということを弱めてしまって、各知能が小さくなってしまい、統合的に物ごとを考えることができない。それは言語情報だけが肥大化して、四角く書いてあるんですけれども、代替知能AIに、しかもそれは依存するという方向で拡大しているわけです。こういうことのために、私たちは生涯を通じて、複雑なこの人間社会を学んでいく必要があるということになってしまったわけですね。そこで私は環境教育の研究を長らくしてきましたから、こういったものを全部つなぎ合わせたところで、こんなようなモデルを作っているわけです。

*草本植物の進化

さて植物の話にもう一度、戻っていきますけれども、簡単にお示しすると、木本植物が草本植物になったのがだいたい第三紀ですね。それから多年生草本が一年生草本に進化してきたのが第四紀ということになります。その中で多年生草本から一年生草本が進化してくるということですね。これが植物と人間との共生における重要なポイントですね。

この表(穀物一覧)はとても小さくて見にくいので、大雑把に申し上げますと、世界各地で多くの穀物が栽培化されているわけです。いまでも実際に栽培されて使われているもの。あるいはもう絶滅してしまったもの。そういったものがありますけれども、ざっと見ていただくと、染色体が倍化しているとか、一年生草本がとても多いとか、それから雑穀についてはC植物が多いということが見て取れます。C植物とC植物を簡単に比較しますと、C植物というのは雑穀に多いんですけれども、厳しい環境の中で耐えることができるということで、雑穀はとても良い植物群だと思うわけですね。 

2.農耕と農業の比較

私は作物の栽培過程の研究をしてきました。野生植物からそれを採取して食べる、管理する。それから栽培と技術的に進んできまして、半栽培から栽培段階に至って、農耕からさらに農業というものが始まってくるという経過があるわけです。この言葉の定義は文化人類学の会合で最近なされたものです。これで農業とか農耕とか、そういったものは連続的な文化的進化なんですけれども、大雑把に見ますと、農耕というのは家族が自給のためにするもので、農業というのは国の成立と同じ時期に起こっているもので、税としてですね、国の経済基盤になるように、農業という産業が強要されたわけですね。そんなふうに見るようになったのです。

*自然から農耕文化へ

この農耕というもの、あるいは場合によっては、もうちょっと農業というのもそうなんですが、中尾佐助さんが農耕文化基本複合という概念を提案されています。簡単に言えば、種から胃袋までとおっしゃっているんですけれども、栽培植物の種子にまつわる色々な遺伝的な変異とかですね、文化的な変異とかありますけれども、栽培するには栽培する方法と道具、加工の方法と道具、調理についても道具が要りますね。そして食べ物ができあがったときに、どのように食べるか、いつ食べるかという食の作法がありますね。こういったものをひっくるめて、農耕文化基本複合と言っているわけです。複合として、こういう文化があるということを知っていただきたいと思うんです。

*穀物の加工調整

簡単にご紹介すると、これは水車小屋で大麦を搗いて、精白をしたりしておりますし、右の上の写真は水車小屋の中なんですけれども、小麦など製粉するように搗くところですね。それから私は自分の家で精白ができるように、こんな小さな電動式の精白機とか、製粉機とかを持っておりまして、自分で育てた穀類も加工調理をすることができるのです。先ほど農耕文化基本複合というふうに申し上げましたけれども、この加工工程というのはなかなか複雑なものですね。一つひとつ積み上げてみると、このような図になります。これも色々な道具を使って、色々な方法を使って、色々な食べ物ができあがるということになるわけです。

*第四紀人新世初期

それから第四紀人新世ということを先ほど申し上げました。私は人新生の初期に今あると思うんです。この定義は色々な方がいくつかの提案をしていますが、私が支持したいのは、次の定義ですね。1945年にアメリカのトリニティ実験で原子力が使えるようになりました。そういう原子力のエネルギーが使えることになったすぐあとに、原子爆弾が造られて、広島とか長崎に投下されました。こういうことによって、本来なかった原子だとか分子だとかいう化学物質が色々なものが作られるようになりました。それが地球上に拡散するというところで、新しい人の中心となった第四紀が始まったんだとうふうに定義されていますね。私はこれを支持したいと思います。

原子力関係のことで見てくると、この70数年の間にですね、色々な水爆実験があったり、あるいは発電所の事故が起こったりとか、そんなことがあります。現在はロシアがウクライナに侵略して、原子核爆弾を使うなどと脅しをかけていますけれども、こういうような流れが一つの人新世の主要な流れですね。そういう中で、国連なども色々な努力をされてきたんでしょう。人権宣言から始まって、生物多様性条約とか先住民の権利宣言とか小農宣言とかですね、それで今年は国際雑穀年ということになっているわけです。この間、人為災害ということを見ていきますと、第二次世界大戦が終わったあとの話でも、化石燃料が大量に使われるようになりまして、いくつかの公害病が日本でも発生しますね。重大な病気があります。その間、緑の革命とか、あるいは遺伝子組換えとか、最近ではゲノム編集とかいうことが行われていく中で、ピークオイルもすでに過ぎたとも言われていますけれども、こういうような自然災害、人為災害が起こる。それと同時に日本に限っても、自然災害がとても多い。伊勢湾台風は私も名古屋にいて経験しましたけれども、阪神淡路の大震災があって、東日本大震災があって、火山もいくつも爆発するし、台風もたくさん来る、豪雨も多いということがありますね。

それから並行してですね、人口がすでに80億を超したと言われています。人口爆発はもう50年前から危惧されていたんですけれども、人口が爆発して、同時に肉食の拡大が起こっていて、家畜を多頭飼育するということになりますから、家畜もポピュレーション、人間では人口ですけれども、それがものすごい増えている。そういうことがどういうことを結果させるかというと、感染症がものすごく広がるわけですね。過去この70数年でもいくつも色々な感染症、人間だけではなくて、動物たちにも色々な感染症が起こり、現在はまた鳥インフルエンザが起こって、1千万羽以上を殺処分したようですね。コロナウイルスもこの3年間、なかなか収まりませんね。そういうことと同時に、一番右の方に書いてあるんですけれども、テレビ放送の開始からインターネット、それからSNSが普及して、いまでは人工知能AIとまで言われて、ビッグデータを使用して色々なことを行うという方向に動いているわけですね。

*連続的・統合的な生物文化多様性の蓄積と現代的衰退

こういう中で私たちは、現在はグローバル金融だとかITだとかAIだとか、そういうところに生きていると皆さんはお思いでしょうけれども、それは違っていて、そういう中でも過去の歴史というものは、重なって残って伝わってきているわけですね。そういう歴史の文化的な進化、文明と言う中で私たちは生きているわけですから、とても複雑になってきている。そういうものを学校教育履歴だけでは、これは身に付きません。やはり自分がどのように学ぶか、個人学習履歴がとても重要だと思いますね。ですから生涯にわたって学び続けるということ、できれば地域社会でということです。学校教育などはほんの一部分に過ぎないですね。職場や地域社会で学ぶということになります。

*シュナの旅

私は宮崎駿さんの作品は好きで、小金井市の駅の近くにジプリの会社があります。『シュナの旅』というのは、ひじょうに象徴的なんですけれども、チベットの民話から取って再話したようです。ヒワビエを作っている小さな王国の王子さまが、おそらく遺伝子工学で作っただろうオオムギを探しに行くという旅の話ですね。これをさらに拡張していったのが、『風の谷のナウシカ』です。皆さまがたはアニメーションで見ておられるかもしれませんが、描かれたマンガとしては第7巻まであって、この第7巻では、どうして千年後にこのような大変なことになってしまったかという謎解きをしているのですね。その中で生物文化多様性を保全する庭の話とか、腐海はどうしてできて、どういうふうに機能しているかという謎とかですね、それをプログラムしたのが科学教団であったとかですね、まあこんなようなお話が描かれているわけです。千年後のこの地球の話ですね。

*生活様式の変遷

さて本題にだんだん近づいてきますが、いまお話している麦だとか雑穀だとかいうものは、私たちが生きるための糧であるわけです。それに対して、パンコムギだとかイネ、トウモロコシという、いわゆる主要穀物というのは商品なわけですね。国際的な貿易商品で、戦略物資とも言うようなものになるわけですね。ここの2つの対比を頭に置いて聞いていただきたいと思うんです。

先ほど申し上げたように、私たちの生活様式というのは、家族のために生きる暮らしですね、職業がなくても、私などは無職ですけれども、無職でも仕事はたくさんあります。そういうものを生業というふうに言うわけですけれど、家族、生きるためですね、そういうところで、ひじょうに生物的、文化的な進化の内容で、生き物として生きているわけです。個人としては自由とか自立とかですね、あるいは社会はひじょうに定常的な社会を求めていたわけですが、それが産業、商業というふうに進んでいく中で変わっていくわけですね。いま人新世という現代に私たちはいて、今後どうするかという大きな分岐点にいるわけですけれども、私は幸せになるためには、生き物の文明に向かうというようなこと。そのためには過剰な便利は自律すべきものだと思うんですね。自己家畜化に向かっているのをどう抗うかということになるのだと思うわけです。 

3.山村農耕

次に山村の農耕について、ちょっとご紹介しておきたいと思います。山村で典型的なのはですね、左の上下3枚の写真の左下ものを見ていただきますと、これは冬の写真なんですが、雪が解けていて、大麦、小麦が育っています。こういうところをムギジと言います。右の方は雪が解けません。陽があんまり当たらないんですね。こういうところをハルマジと言い、麦を作ることができないところです。それからもう一つ、重要な問題が起こってきているのは、せっかく作っても、電気柵で囲っても、イノシシとかサルとかが入ってですね、ほとんど全部、舐めるほどに食べてしまうんですね。そういうような食害が起こっているわけです。

*身近な野生動物の種類と害獣種の変化

どんな動物が来るかということを調査したことがありますが、多くはハクビシン。それからイノシシとかサルとかクマなども出ます。こういったような野生獣が順化して、都会の近くまで下りてきているわけですね。山村だけではないです。ハクビシンは小金井市でも出て、プランタの野菜も食べてしまうんですよ。

*山地農耕の困難

それからこれは私が主にお付き合いしてきた山梨県の上野原というところです。だいたい山間地の景観を左上の写真は示していますが、人家は本来、山の中腹にあって、その周辺に陽当たりが良い所に斜面の畑ができますね。現在は一番下が鶴川という川ですけれども、川沿いにクルマの道路ができていくわけですね。軽トラの入れる道路が届かないところは畑がどんどん耕作放棄されていくということです。こういう斜面のところは日照時間が短いし、乾燥しやすい。土壌流失はもちろん多い。生産物を運搬するのが大変ということがありますね。場合によっては梅雨期のときに、せっかく収穫して乾かしているものも穂発芽してしまうということが起こります。そういう中で過疎高齢化が進んで、さらに所有者不明土地が拡大するという現在の状況があります。

*山村農耕の事例

詳しくはご説明できませんが、左の表が3人の篤農の事例です。一番下に耕作面積が書いてありますが、山間地で家族が耕作するのは40から50アールですね。それでもう一つ、見ていただきたいのは色々な種類の穀物だとかイモだとか豆だとか野菜ですね。そういったものがそれぞれ少しずつ、たくさんのものが作られているということが見てとっていただけると思います。実際、どういうものを作っているかということをお尋ねしたんですけれども、色々な雑穀類もちょっとずつ作って、イモ類はかなりの農家が基本的に作っておられますし、豆類も種類が多いですね。それから野菜も色々な種類のものを作っているということが見られると思います。

*雑穀は縄文時代以降の伝統的畑作農耕の象徴

さて、次第に本題に近づいてきています。私は雑穀というのは縄文時代以降の伝統的な畑作農耕の象徴だと思うので、「雑穀街道」ということを提唱して、今年は国際雑穀年ですから、これをFAOの世界農業遺産に登録してほしいという準備活動をしてきています。もちろん野菜や豆などはこれまでお話したようにその在来品種を継承、保存していくということが、とても大事だと思うわけですね。そういうことで、地域の自治体に賛同をお願いをしているのです。篤農だけでこれらの在来品種を守るという努力は、何百年、何千年としてきましたけれども、ちょっと今はもうとても厳しいです。できれば地域の自治体が積極的に関与してくださって保存・継承活動を、ということを願うわけです。それで地域の市や村やお願いをしているところですけれども、そこの合意がないと知事から農林水産大臣に申請書を出せませんね。そういったところで今は止まっているわけです。ぜひ協力をしていただきたいと思っているのです。うまく協力をしていただければ、最短、来年の春に申請するということになると思います。

*主な雑穀の紹介

さて、雑穀のことを簡単にご紹介していきますと、左上から右下まで順に見ていただきたいんですが、キビ、アワとそれからシコクビエですね。それからモロコシが中段にありまして、ヒエがあって、右下がハトムギです。こうしたものがイネ科の雑穀と称されるものですね。狭い意味での定義はこうしたものです。ちょっと定義を広げますと、ソバ、センニンコク、キヌアのようなイネ科以外のものも加えます。さらに拡大して雑穀と言われている、あるいは言っているというのは、パンコムギとイネとトウモロコシ以外のもので、イネであっても赤米とか黒米を雑穀と言ったりですね、豆類も入れたり、ゴマだとかエゴマだとかですね、そういったものを雑穀と称している商品もあります。

*勝坂遺跡の復元集落

この写真の左上は相模原市南区の勝坂遺跡の復元集落なんです。右の写真はここから出てきた土器ですね。縄文中期の土器で、この土器は縄文中期を代表する土器と言われています。この土器には例えば小さな粒々の穴があいていて、その穴の中にゴムを注入して形をとって電子顕微鏡で観察しますと、ダイズとかアズキの形態のものがあって、それが時代を経るに従って大きくなっているということが最近の研究で明らかになっているわけですね。どういうことを意味するかというと、縄文の中期には、ダイズとかアズキというものが、この日本列島の中でも栽培化過程を進めていた可能性があるということを示しているのですね。上の真ん中の写真は津久井在来ダイズと言いますが、相模原市ではこの在来の大豆を増やす、継承するという努力をされています。

*茶園と雑穀畑、農家の蔵と穀物貯蔵庫

下の写真は私たちが雑穀栽培の講習会をやっている相模原市緑区の佐野川地区なんですけれども、収穫したものをこのように干しています。この地域は日本の里百選にも選ばれている美しいところで、静岡でなくてもここから冨士山も遠望できますし、茶畑もあります。この畑の持ち主さんは相続したあと、会社員の方ですから、畑はやっておりませんので、私たちの友人が畑を借りて、茶や雑穀を栽培しています。このお家の立派な蔵の中を見せていただきますと、穀槽と言いますけれども、このタンスのようなものの中に色々な穀物が入っています。下に示したのが赤い品種のアワで、この地域の在来品種です。2つは畑で作るイネですけれども、陸稲と言いますが、モチ性のものとウルチ性の品種がしまわれています。飢饉が起こったときに、家族をどう守るかということで、このように常日頃から準備をされてきたということです。 

4.麦・穀類・豆類の栽培の衰退

さて、ここが主題になります。麦、雑穀、豆類の栽培がどうして衰退したかということです。とりわけ近代から現代にかけての部分でお話をしたいと思うんですけれども、食の差別ということですね。これはずっとあったわけです。江戸時代の幕藩体制においてはイネ米の石高制という貢納制度があったわけですね。簡単に言うと、失礼ながら薩長の特に薩摩の下級武士の方はサツマイモをたくさん食べていたと。だからそういう方たちが京都に来て、藩のお金で豪遊をなさってですね、それを京都の方が揶揄をして「芋侍」と悪口を言っていたわけですね。あるいは農山村でも水田があまりできない山間地ではお芋、里芋などをたくさん食べますから、「いもくい」ということで、差別というか蔑視を同じ農家同士でもしていたのですね。そういうことがありまして、明治維新をうまく成功させた下級武士の方たちは「稲米華族」さまになるわけですね。ですからそういう芋だとか雑穀類を自分が食べていたのに蔑視するということになります。

さらに第二次世界大戦に負けたあと、アメリカの支配下に入りまして、その食糧戦略の下に置かれてしまったので、お役人さんたちは「麦官僚」ということになっていくわけですね。こういう官僚の中で、最も地位の高かった方が柳田國男という方です。この方は民俗学者だと皆さんお思いでしょうけれども、彼の学説として、第二次世界大戦が終わるころから、徐々に言われていたことですが、稲作単一民族説というのを出されました。この山縣有朋の寵愛を受けたのが柳田國男という方ですね。それで官僚として大出世されたわけです。

それと3番目に書いているのは、戦争中はですね、食糧がとても厳しくなりましたですね。その中で配給制度が行われて、色々なものがその配給制度の下で国の管理下に置かれるようになっていったのです。これが皮肉なことに、本来、イネ米をあまり食べていなかった山間農山村にまで、イネが普及していくという結果をもたらしたのです。麦とか雑穀類が次第に衰退していって、イネ米を中心に食べるという方向に、戦争が負けたあとは徐々に変わっていくわけですね。

一方、4番目に書いているように、アメリカの食糧戦略によってコムギ食を推奨する、イネ米を食べていると頭がおバカさんになるということが大手の新聞でも大キャンペーンを張ったようですね。そういう中でコムギは輸入する。それから西欧的な食文化の方がお利巧さんになるよ、というふうに言われて肉食が拡大する。その結果として、トウモロコシも大いに輸入するという方向に向かうわけです。それに対して、柳田國男がおそらくそう考えたんでしょうね。稲作単一民族説ということを唱えることによって、水田稲作を重点化すれば、いいんじゃないかと。その結果、どうなったかと言うと、イネ米だけ単一生産をして過剰になってしまう。ムギの裏作もしなくなってしまうんですね。で、過剰になったから減反政策という方向に向かってきたということです。

6番目は道路の発達ですけれども、道路がたくさん、公共事業で造られてきました。それで食料の流通が良くなって、換金作物が大事にされて、住んでいる人たちは大いに都会に移住していくということになりますね。農山村は過疎高齢化するという方向に向かってきたということも要因の一つです。その結果、7番目に里、人里が衰微して、鳥獣害が拡大する。野生鳥獣も人間の文明に順化して、どんどん里に下りてくるわけですね。その結果として、耕作放棄地が増大し、近隣の里山も所有者不明土地が拡大して、現在、九州よりも広いほどだと。近い将来、北海道より広くなるとまで、政府の報告ではなされていますね。

それから海外の方でちょっと見ますと、8番目に緑の革命というのが、かなり大きな影響を持ったと思います。高収性の品種が作られて、モノカルチャー、同じものしか作らないという方向に向かって、たくさんの肥料と農薬と、たくさんの水を使って、稲、トウモロコシ、麦、場合によっては大豆だとかですね、そんなものが作られるようになる。そういったものは世界的な商品になりますので、穀物の大手がですね、支配下に置くという方向に向かってきたわけですね。少し柳田国男さんのことは省略をしていきます。

*世界の主要食糧と栽培者や摂食者との関係

先ほど、食べ物の差別のことについて言いました。これは日本の明治期以降の話だけではありませんで、ヨーロッパでも色々な国々でもそうなんですけれども、要するに社会的に地位の高い方たちは、ヨーロッパで言うなら、パンコムギを食べる。それから、そうでない人たちは、二粒コムギを食べるということですね。小麦の製粉ということはとても力、エネルギーが要ることなんですよ。粉にするのはもう一つ、加工工程が増えますからね。ということで、広くそういう食の差別ということはあったわけですね。 

5.自然災害、人為災害

それから5番目にお話したいのは、自然災害、人為災害なんですけれども、20世紀と言うのは戦争の世紀と言われました。それでいま21世紀は環境の世紀ということを期待されてきたわけです。この20世紀という100年の間に、どれだけの人が不幸な死に方をしたかということですね。そのおもなものをここに掲げてみたんですけれども、第一次世界大戦も第二次世界大戦もあったのですが、戦争で亡くなった人よりも、あるいは多いんじゃないかと言われているのは餓死した人たちですね。

その中でいくつかご紹介すると、1932年のウクライナ・カザフスタンというところに書いてあるんですが、ホロドモールということがありました。これは当時、ソ連がスターリンの時代で、ウクライナの農民からムギ類を奪ってしまったりですね、それに逆らった農民たちを牢屋に入れたり、拷問して殺したりというようなことをして、推定では多い場合には1千万人ほど餓死したと言われているわけですね。それからもう一つは、私はあまり知らなかったんですけれど、色々と歴史を学ぶと分かってきたのが1947年ですね。大躍進政策というのが、中国の毛沢東の政策で行われたのですけれども、その結果としてですね、3千6百万人くらいが餓死したとされているわけですね。私は日本軍が戦争で色々悪いことをしたから中国の方が亡くなったというふうに思っていたんですけれども、どうもそうではなくてもっと酷い話は毛沢東の政策の失敗です。

*平取町の雑穀栽培の変遷

まあ、こんなようなことがありまして、次に一つ、平取町の雑穀栽培の変遷を町史から抜き出してみました。北海道というのは日本の中でも特別な、明治期以降になってからのですね、農牧畜が発展してきているわけですね。この平取町にも本州各地から多くの方が入植しまして、最初はいわゆる原野だったのです。アイヌの人たちはもちろん、住んでいましたけれども、そういう中でそれぞれのところから、色々な在来品種を持って、特にキビだとかヒエだとかアワだとか、とても厳しい環境条件の中で作りやすい雑穀類を持って、移住してきたわけです。その後、灌漑設備が徐々に整えられて、平坦部では徐々に水田稲作ができるようになってきたということですね。

そういう中でも2回、雑穀が急にたくさん栽培された時期がありました。その時期がいつかと言うと、ともに第一次世界大戦のとき、それから第二次世界大戦のときです。このように一つの地域を見ましても、東京の方でも同じようなことが起こっているわけですが、雑穀類が多くの人たちの命を救ったと、生きる糧になったということが示されたのですね。

*日本のイネ生産と輸入穀物

これは最近のデータを少しまとめているんですけれども、右上は雑穀に関して小さく書いていますが、モロコシなどはこの日本がある時期は500万トンくらい輸入しています。いまでも200万トンくらい輸入していますね。ほかの雑穀類は数万トン程度の輸入ですけれども、左のグラフを見ていただきますと、先ほどお話しましたように、イネは減反政策を取って、徐々に徐々に栽培面積が減ります。面積が減ることは技術的に努力しても生産量も減ってきますね。それに対して小麦は高値安定といいましょうか、600万トンがずっと同じように輸入されている。特に顕著なものを見ていただきたいんですが、トウモロコシの輸入量が爆発的に増えているのですね。これは肉食が多くなった。牛だとか豚だとかですね、多頭飼育をすると。鶏なんかものすごく多頭飼育をやりますね。そういうことのためにトウモロコシの輸入が多いです。

*ウクライナと日本の比較

ウクライナのことが毎日、ニュースになって、多くの皆さま、心を痛めておられると思うんですけれども、日本と比較してみました。一番新しいFAOのデータですけれども、ウクライナは面積的には日本の2倍弱くらいの面積がありますね。それに対して、人口は日本の3分の1くらいです。コムギ、オオムギ、ライムギ、カラスムギとかですね、トウモロコシも多く作っていますし、それからダイズやヒマワリもたくさん作っていて、生産量が多いいです。

それと右の日本を比べてみますと、お恥ずかしいくらいな数値ですね、まあ、誤差に近いくらいな数値で、イネだけが何とか体面を保っているわけです。それともう一つ、緑色に左の作物面積のところでモロコシ、雑穀、ソバと書いてありますけれども、こういったものをウクライナではそれなりの量を作っているのです。ここで雑穀、英語ではmulletと書いてありますけれども、これは大かたがキビです。皆さんは驚かれるかもしれませんが、ヨーロッパでは8500年前から、キビだとかアワだとかが栽培されていて、いまでも少量ながら栽培されて食べられているんですね。

*韓国と中国の雑穀生産量

細かいことはこのグラフではお話できませんけれども、お隣の韓国と中国を最新のデータで比較してみました。まず韓国は、直感的に見ていただくといいんですが、コムギとかオオムギ、モロコシ、雑穀ですね。韓国は月に1回、2回は雑穀の日があって、食べることを政府が推奨していたんですけれども、ある時期になって、これらのものは急激に減りました。イネも徐々に減っていますよね。日本と同じような傾向を示している。これに対して真ん中の中国を見ていただきますと、もちろん雑穀類やオオムギは減る傾向にはあるんですけれども、特に注意してほしいのは、イネ、トウモロコシ、コムギ、これが急増しているのです。ここはやはり政策の違いというものが明瞭に見られますね。注意したいと思います。

*津波を免れた在来品種

それから今度は東日本大震災とか、そのへんのあたりから少しお話を進めたいんですが、この右上の写真は、震災のあとにですね、平たいところは水田で、舐めるように津波で流されてしまって、水田はなくなってしまいました。ところが同じ時期に丘の上の畑作は、このモロコシとか左の写真ですけれども、キビがこのように育っているのですね。この畑の持ち主は右下の写真ですけれども、色々な穀物なり豆なり野菜なりをですね、自家採種しておられるのですね。こうして自分たちの家族を守ることがここではできているわけです。だから下の水田地帯が被害を受けたあと、この山間地の方たちがかなりの食糧支援をしたということですね。私も有機農家を訪ねてたくさんお話を伺いました。

*有機農家の被害

この有機農家の被害ですけれども、有機農業をやるにあたっては、近隣の森から落ち葉を拾ってきて、堆肥をつくるということをします。あるいは林産物を作りますし、こういった有機農産物を家畜に食べさせて、肉を売ると言うこともしてきました。ところがこれは岩手県の南部地域の事例なんですけれども、このあたりは宮城県を超えて、福島県からかなりの放射性物質が風の影響で降って、ホットスポットになってしまったんです。ですから良心的な有機農家は生産物を出すことができなくなってしまったんですね。このような被害もありました。

*雑穀街道

私たちは山村振興の活動をやってきまして、長らくエコミュージアム日本村ということを進めてきたんですけれども、この中で特に山梨県の小菅村から上野原市、それから相模原市のほうへ繋がるのを「雑穀街道」というふうに称するようになったのです。これはですね、東京都の水源林がある丹波山村とヤマメの養殖に日本で初めて成功した小菅村ですね、それから長寿村で世界的に有名になった棡原、上野原市です。それからここのところトランジション・タウンでとても熱心に活動されている藤野ですね。こうしたところを繋いで雑穀街道というものを作れないかと。それはドイツのロマンティック街道とか古城街道とか、そういうのをヒントにしているんですけれども、もう少し、点から線から面に広がるような地域振興の可能性が開けないかという考え方です。

少し簡単にだけ見ますと、たくさんの雑穀を作っているところは色々な調理もあります。そういうことをこの図は示していますね。それから50年くらいずっと観察を続けてきましたけれども、123の集落ですか、これをずっと見てきました。そういう中でこの間に、色々な雑穀の種、あるいは品種、そういうものが急激に減ってきたことをこの図は示しています。

*植物と人々の博物館

こうしたものを極力残したいと私たちは思いましたから、「植物と人々の博物館」という活動を東京学芸大学と小菅村と社会連携協定を結びまして推進の努力をしてきました。小菅村の中央公民館に博物館を置いていたのですけれども、耐震工事だということで外に出されてしまいましたので、現在は倉庫をお借りして、ささやかな展示活動をしています。ここの展示の中には、関連図書が8千点くらい、海外学術調査で世界中から集めた雑穀や色々な栽培植物の標本が1万点くらいあります。こうしたものは私が近いうちにあの世に行ったとしたら、すべて廃棄するという予定になっています。 

6.農林水産業教育の重要性

実際ですね、私は東京学芸大学に就職したんですけれども、東京教育大学院生のときの教授がですね、私に学芸大学に行って日本の農業教育を立て直せというミッションを与えました。それで学大に就職しましたが、当時の文部省教育大学室長は農業教育などは要らないと。さっさと潰してしまえという強力な行政指導をしていました。それに率直に言って私は逆らいまして、環境教育という考え方の中で農林業教育を残していくという方法を採ったわけです。多くの方の協力がありまして、何とかこの2㌶弱の農園は残すことができているわけですね。

そういう中で子供たちや学部生から大学院博士課程院生までといっしょに、このようにドングリから森づくりをするとか、近隣の小学校や付属小学校とか、あるいは都内から子供たちに集まってもらって、冒険学校や農学校をやるという活動を続けてきました。この中にちっちゃな田んぼもありますので、ここで子供たちや大学生たち、それから市民にも大いに開放していますので、小金井市の市民の方たちもおいでになってですね、いっしょに田植えをしたり、餅つきをしたり、色々な工芸品を作ったりといった活動をやっています。

また、都会の農園だけではとても学びが足りませんので、これは奥多摩だとか小菅村だとか、檜原村だとか、そういったところに行ってですね、大学公開講座で冒険学校というのをやってきました。炭焼きを習ったりですね、山を歩いていくだけじゃなくて、山の中で色々なパフォーマンスをやるだとかいうことをしました。右上の写真は、私はタイの大学院で環境教育の授業を数年間、担当していましたので、タイの大学から来られた先生方といっしょに院生たちが来て、山梨県の小菅村に行って、ヤマメの養殖の業者の方からお話を聞いているという写真。右下の写真は北海道に長らく調査に行きましたので、私もピリカアイヌと呼んでいただけるようになり、アイヌの人たちの友人がかなりおりますので、東京に来ていただいて、アイヌの人たちの子供の遊びなどを教えていただくというプログラムをやりました。 

7.生き物の文明への移行

これから未来に対して、私たち大人は次の世代に対して、やはり希望を持てるような方向性を示さなければいけないですね。そういったことでやはり生き物の文明という方向へいくのがいいんじゃないかという希望を持っているわけです。世界的には先ほど来、お話してきたようにモノカルチャーで大規模農業というようなことでですね、色々な経済危機が起こったりということがありますから、できるだけ輸入に依存しないで、自分たちで少しでも作るのが良いと思うのです。現場に即したきめ細かな安全保障ですね、食料の多面的な政策がほしいと思うわけです。

でも私たち自身も自分たちでやらないと、お任せではダメなので、少しでも自給農耕をやる。あるいは有機農家が提携家庭何十軒かとお付き合いをするというようなですね、小規模農業というのがとても大事だと思うんです。そういう中で地域固有の在来品種を保存したり、復活をするということ、その中で自然権とか食料主権とか生業の自由とかいうものを日本国憲法の中に入れてほしいという提案をしています。地域の食の安全を高めるためには、自家採種とか種苗交換の自由が大事ですし、できれば私たちも家庭菜園とか色々なことをやって、在来品種を残していくこと、それによって家族の食の安全を確保するということですね。いま農地法も改正されていますので、少しは変わってくるとは思いますが、憲法の中にこうしたものを入れるということが大事だと思っています。生物文化多様性ということを考えたいと思いますし、詳しくはお話しませんが、このようなことも考えています。

*ホームガーデンの変遷

ホームガーデンと言っているものも、日本ではとても面積が狭いんですけれども、海外ではかなり広い事例があります。ロシアのダーチャなどはかなり広いですよね。それから学校園というのも日本だけではなくて、ドイツでもアメリカ、ニューヨークなんかでもかなり行われていますね。ぜひこれも進めてほしいと思います。

これからはちょっと写真が中心となりますが、都市農業とかですね、そういったところでも色々できることがあります。イギリスの王立キュー植物園では、種を蒔く人の銅像の下に、背景には小麦の仲間の生態展示、足元のところは日本のヒエもありますけど、インドや日本の雑穀類の生態展示がありますね。右下の写真はミュージアム№1と言っていますが、「人々と植物の博物館」があります。カナダのバンクーバーの中心のコミュニティガーデンですね、色々な野菜を作っています。これはイギリスのトモーデンという町ですけれども、市役所だとか警察署だとか、そういったところの前に食べ物を作るというような庭をみんなで作っていますね。できたものは色々な人に分かち合います。アメリカはファーマーズ・マーケットがよく発達しているんですけれども、これはハワイの事例ですが、月に1、2回、農家が集まって、野菜を売ったり、生産物を売ったり、食べ物を売ったりして、多くの人が集まります。これはイギリスのシューマッハ・カレッジですけれども、たまたまお祭りでカフェをやってたりですね、カレッジの周りには古い学校農園と言いますか、コミュニティ・ガーデンとかそういったものがあります。

これは小金井市の市民農園ですけれども、5、6倍の倍率で、私も1回しか当たったことがないんですけれども、ほとんど当たりません。右の方の写真は小菅村の見本園の写真ですね。小金井市で私たちは公民館の方と協力して、江戸野菜の復活に大いに協力をして、江戸野菜も少しは復活したんだと思います。種子は農薬で消毒されているものがとても多いということと、注意していただきたいのは、例えば皆さんが種子を買いますと、その袋のうしろをご覧になってください。そうすると大かたは海外で種子が採取されているわけですね。日本で種取りをあまりもうしていないんです。海外に頼んで種を作ってもらって日本で販売するという構図になっていますね。これもとても困った状況だと思います。

すこし飛ばしますが、これはトランジション・タウンの発祥地であるTotnesという小さな町ですけれども、そこのコミュニティ・ガーデンだとか町の中を歩きますと、地域通貨があってですね、これで買い物できますよというお店がいくつかあります。これはまたイギリスですけれども、有機農家とか、あるいはナショナルトラストでリンゴの品種を残すというような活動をやっていたりですね、こちらの方はエデン・プロジェクトという大きな植物園で、年間200万人以上が海外からもここに訪れます。キュー植物園はアカデミックなんですが、ここはひじょうにエンターテインメントで、とても面白いところですね。真ん中の下の写真はリンゴの品種を200くらい保存しているところです。右の写真はたまたま国際イネ年だったので、このようなモニュメントがですね、飾られていました。有機農家では日本と同じようにスタンドで野菜を販売していたりしています。これはアメリカのネイティブ・シーズ・サーチというNPO団体ですけれども、とても優れた活動をしていまして、ネイティブ・アメリカンとか、古い農家の方々の種子をあずかって、増殖して販売したりとか、食べ物や色々なものを販売したりするそんな活動をやっています。これは千葉大学の園芸学部ですけれども、校門から松戸駅まで近隣のお家にお願いをして、植木鉢を置いて野菜をそこに植えるというような活動をやっています。これはエディブル・ウェイというようなことで、家の道路際のところに色々な野菜を作ったり、雑穀を作ったりしています。道行く人が見て、喜んで色々質問してくださったりしています。

*自給知足、素のままの美しい暮らし

さてこれで終わりですけれども、自給知足というようなことで、素のままの美しい暮らしをするというようなことがとても大事だと思います。詳しくはお話できませんでしたので、ご興味を持ってくださった方はさらに私のウェブサイトを見ていただくと、動画だとか色々な電子出版とかしていますので、どうぞご覧になってください。どうもありがとうございました。